谷三十郎てきな生活

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幕末映画鑑賞!「六人の暗殺者」 その②

て、「六人の暗殺者」にもとうとう新選組が登場した。主人公が坂本龍馬暗殺の犯人は新選組だとききつけ、屯所に様子を伺いに行くのだが、そこで驚いた!

 なんと平隊士たちが着ているのが、だんだら羽織ではなく黒の羽織なのである! 今日では新選組が着用していたのはだんだらではなく、黒の上下だったというのは有名な話だが、まさか1955年にそれが再現されているとは!

 と思ったら、近藤勇が普通にだんだらで登場した。あんまし関係なかったようである。近藤勇を演じるのは山形勲。調べてみるとかの黒澤作品「七人の侍」にも出演されていたらしい。本物そっくりの厳めしい顔つき、そして本物そっくりの鋭い眼光! 肖像写真の近藤さんとそっくりである!

 というワケで、この近藤勇に注目しながらこの映画の総評をまとめていくことにしたい。あくまで筆者は「新選組」に寄り添うつもりである。

 なお、古い映画とはいえ筆者はこれをAmazonプライムで視聴したため、もしかするとこれから観るという人があるかもしれない。よってネタバレは極力回避して進めてゆく。

明治維新の描き方

 本作は時代的には龍馬暗殺~明治維新までを描いた作品だから、近藤勇にとってはそのまま栄光~没落が描かれている。そしてそこには、筆者が鑑賞前に想像していた「血風録」「燃えよ剣」以前の、志士たちの敵役としての近藤勇はいないのである。

 というのはつまり、本作が明治維新を全肯定する立場にはないことを意味する。むしろそこには、新政府批判が色濃く表れていた。その根っこにあるのは、権力者VS民衆という構図である。

 主人公が維新後に新聞によって政府批判を行う点や、坂本龍馬を崇敬している点からも、本作が自由民権運動をかなり肯定的に描いてあることは明白といっていい。そしてそれを弾圧する新政府をラジカルな権力者として登場し、謂わば彼らが本作における「敵役」となる。

 さてここで近藤勇に視点を戻す。彼は坂本龍馬大政奉還を幕府への救済措置と断じ、龍馬暗殺への関与を否定する。つまりは「龍馬を憎んでいない」「新政府に倒される」というシチュエーションのみにおいては、自由民権運動に奔走する主人公の視点からはかなり同情的に描かれているのだ。

 

新選組」の胎動

 筆者はこれまで、新選組のイメージを根本から変えたのが「血風録」とばかり思っていたが、どうやら以前から新選組を好意的に描く映画はあったようである。

 というのは、思えばそんなに難しい話ではない。

 例えば織田信長が、マントを翻して葡萄酒を嗜みながら、地球儀を回転させる絵面。どの映画、ドラマ、と言われるとピンとこないけれど、何故だか鮮明に想像できる。これが長年培われてきた「歴史観」といえる。

 そしてもし、そうした映画、ドラマが放映放送された際、必ず「本当の織田信長はこうじゃない!」という意見が飛び交う。史実の織田信長はむしろ保守的で、海外にまで目を向けていなかったというのが現代の史実的解釈だからだ。だが今でも、マントを翻す信長は他方面に現れている。世間一般に「本来の歴史」が浸透するには、途方もない時間がかかるということだ。

 そうした蓄積された土砂のような歴史観が、鉄砲水で急進的に一心されることがある。その鉄砲水とは、テレビドラマである。近年でいえば、間違いなく「麒麟がくる」がその役割を果たした。染谷将太演じる信長は、一度もマントを翻さなかったし、葡萄酒を嗜まなかったし、地球儀も回転させなかった。

 新選組においてその鉄砲水は「血風録」であったという話で、「六人の暗殺者」は新選組が世に花開く前の、胎動期の作品と言えるだろうか。

 

総評は、一周回って・・・

 いろいろ遠回りをしてしまったけど、作品評に戻ろうと思う。

 とはいえこの作品における幕末は、当時として目新しいのかは不明であるが、現代では逆にオーソドックスである。というのも現代は、旧幕府側を同情的に描く作品があまりに多すぎる。無論新政府を肯定的に描いた作品が無いワケではないが、不思議なことに旧幕府側を描いた作品の方が、何故だか出来が良い。

 敗者を描くためには、勝者は「負けて悔いなし」と描かれる。

 勝者を描くためには、敗者は「負けて仕方なし」と描かれる。

 公平性と客観性が重視される歴史界隈においては、前者の方がそれに近くなるのかもしれない。

 そんなワケで、全体的な流れとしては新鮮な感じはしなかった。

 しかし、要所要所の描き方は実に、現代の我々も十分楽しめるボリュームを含んであることはしっかりと書いておく。

 ここにおいてはむしろ、幕末から明治の動乱期で敗れて行った数多の志士たちの哀しさ、虚しさの描き方に着目すべきなのだ。特に中盤は敵役として登場した薩長の志士が、終盤で「狡兎死して走狗煮らる」のたとえをして再登場する名シーンは圧巻で、本作一番の見せ場といって相違無い。

 本作は決して明治維新を「勝者と敗者」という短絡的な捉え方をしていない。

 鳥羽伏見で勝ったものが維新後に没落したり、どの藩にも属さない浪人が歴史を動かす役割を果たしたり、そうした生々しい幕末の魅力が、この作品に溢れている。

 

 最後に、この作品が幕末~明治という時代をどう捉えていたのか、それを象徴する民衆たちの台詞を抜粋させて終わりとしたい。

「御一新(明治維新)ったって、こちとらの暮らしぶりは一行に変らねえ」

「何のことはねえ、徳川様と天子様が入れ替わっただけじゃねえか」

 P.S.

 とはいえ主人公の伊吹武四郎、直情型過ぎて好みは絶対別れると思うのだが……それはまあ、それとして。