谷三十郎てきな生活

なりきって生活するのはとてつもなく大変で楽しい

あゝ新選組! 「燃えよ剣」そして「血風録」。作品的聖地巡礼実行計画!

史オタクとして、SNSの普及した今を生きている。そのためTwitterでも谷三十郎を名乗り、新選組を中心に語っているのだが、近ごろはYoutubeにまでもその余波がやってきた。

 日本史のオカルトチックな雑学、古典の朗読、同じ歴史オタクの方々による熱意の籠った歴史紹介、有名な歴史ゲームの実況。

 こうしてみると、歴史というものが予想以上に多くの人から愛されているコンテンツだとわかる。ではなぜ僕の周りにはそれを語り合える友達がいないのかは、今後の日本史研究の課題といえる。(註:決して友達がいないわけではない)

 さてそこである日、こんなものを見つけた。

 

www.youtube.com

 

 東映の時代劇といえば、我ら新選組界隈で革命的な役割を果たした作品がある。

 それこそが「燃えよ剣」と「新選組血風録」なのだ。

 それまで新選組といえば、常に敵役(対立者)だった。名だたる維新のスターたちを相手に、時に悪逆非道に、時にフェアに剣を振るっていた。

 堂々たる主役としてテレビ界に打って出たのが、この二作品なのである。

 新選組の大ファンとして、いつかはこれらを視聴せねばなるまいと思っていた。いやむしろ、これらを視聴していないのに新選組を語るなんて失礼じゃないか、とすら思っていた。

 そんな自分にとうとう、伝説の作品をYoutubeで視聴する大チャンスが訪れたのである! 視聴しないわけにはいかぬではないか!

 というわけで、現在公開されているぶんは全て見た(事後報告)。

 いやはや何といっても迫力が違う。近頃のライトに描かれる新選組も大好きだが、やはり貫禄あふれる役者陣の骨太な演技には、新選組も間違いなく幕末のスターであることを思い知らされた。

 特に島田順司の沖田なんぞは、これはもう「見てよかった」という安直な感想しか出てこないのだが、下手をすると近藤や土方よりも群を抜いてこの作品の目玉といえる。

 またこれを見て気づいたことには、昨今の新選組作品は実にこの作品によく似ている。まさしく新選組が創作界隈で羽ばたくための第一歩であったといえる。

 特に近藤勇(舟橋元)など、武骨な剣術家であり新選組を引っ張る局長でありながら、どこかチャーミングなその姿、そしてその声や雰囲気は「銀魂」の近藤勲に酷似している。

 また土方歳三栗塚旭)は言うに及ばず。これはみなもと太郎の「冗談新選組」でもパロディとして使われており、存在感抜群である。

 改めて、こうして司馬遼太郎による二作品を観ていくと、大河ドラマ新選組!」はやはりこの路線からは外れたものだといってよいだろう。司馬遼太郎は時代劇、三谷幸喜は青春劇、といえばわかりやすいだろうか。

 ともかく、新選組好きとしては、現在二話までしか公開されていない。これらが更新されるのが生きがいなのである。

 そしてゆくゆくはDVDも買っちゃおうかな、と思っている。

 気がかりがあるとすれば、谷三十郎が出て来るところまではたして公開してくれるのかどうかである。

 東映さんお願いします。

 なんなら「谷三十郎武田観柳斎切り抜き」とかでもいいです。

続々増える「谷三十郎」。

ごろの新選組界隈は、どうしたことだろうか。数多の作品で、それまで見向きもされてこなかった「谷三十郎」が登場しているではないか!

 それこそ「薄桜鬼」や「ツワモノガタリ」で登場している谷三十郎だが、僕はこの二人の三十郎が所謂シンクロニシティを起していることを特筆したい。

 

 両者の特異性を明確にするため、谷三十郎の一般的なイメージを羅列する。

 ・槍の達人(とはいえ幹部陣に比べると実力は下)

 ・末弟(昌武)を近藤勇の養子にしたことで、天狗になっている。

 ・家柄を鼻にかけ、皆から嫌われている。

 とまあこんなものではないか。

 

 従来の「三十郎」は、これに沿った人物像が描かれてきた。特に司馬遼太郎などは(明らかに彼の好みには合わない人物ではあるものの)散々な書きようである。

 すなわち近藤のような立場が上の人間には、養子を出すなどして諂い、しかし家柄を鼻にかけているワケだから、内心では新選組の事を見下している。

 目上への露骨な媚、そして内心での侮蔑。こうして人物像を抽象化してゆくと、創作における武田観柳斎と似通ったところがある。

 そのせいもあってか「壬生義士伝」などでは、ほとんど合一化された。

 谷三十郎×武田観柳斎という、最強の迷惑キメラの誕生である。なお、ポケモンの理屈でいうと「斎藤一」が四倍弱点になるようで、瞬殺された。

 話を戻すが、とにかくこうした露悪的なキャラが、ある種三十郎の魅力でもあったのである。史実で酒好きだった逸話もそれに拍車をかけている。

 

 では「薄桜鬼」「ツワモノガタリ」の三十郎がどのように特異なのか。

 これはもう、両者ともにビジュアルや、ごくわずかなコマの描写で推察するしかないのだけれど、不思議と彼らには取り繕った様子が無いのである。

 というのはつまり、実力が低いのを無理やり威張った風がない。

 しかも「薄桜鬼」の方の、彼の解説を読んでみるとこんなことが書いてある。

七番組組長。大坂で剣術槍術の道場を開いていたが新選組に加入する。元備中松山藩士で、武士の所作に詳しく知古も多い。谷三兄弟の長兄

(引用元ホームページはこちら:薄桜鬼 真改 天雲ノ抄

 これまでの三十郎は、史実のすべてをネガティヴに解釈され続けられたきらいがある。少なくとも彼は二十年以上、備中松山で武士として暮らしているのだ。

 しかし「お家断絶」という事実で(これもそもそもは万太郎の不祥事という説を僕は推しているが)打ち消されてしまっていた。

 それがここになって「武家の所作に詳しい」という、なんともポジティブな解釈をもって登場したのである。

 

 また「ツワモノガタリ」の三十郎も、ポジティブな解釈である。というより、これに関しては今までの作品がネガティブすぎたのだが。

 ここで登場してくるのが原田左之助である。

 原田左之助が谷の道場で学んだことは、永倉新八が記録に残している。だというのに彼らは驚くほど関係性が描写されない。

 殊に大河ドラマなどは明確に「実力は原田>谷」と言い切っている。

 その点「ツワモノガタリ」は、原田が谷の道場を訪ねるシーンが描かれている。そこで待っていた谷三十郎も強キャラ感満載である。

 願わくばこうした作品が世に羽ばたくことで、谷三十郎が決して地味な悪役でないと認識されれば、僕としてはこんなに嬉しいことはない。

 そしていつか、谷三十郎の映画なりが作られた時!

 僕のところにそこの関係者から「谷三十郎の黎明期以前から彼を推していた貴方に是非、出演して欲しい」と連絡が来るのである!

 そして七番組隊士としてしれっと出てくるのが、僕の将来の夢なのだ。

歴史人物を演じること。解釈違いの群雄割拠、あるいは知識マウントの血風録の中で。

Twitter上に歴史人物なりきり垢、という小さな世界がある。

 あれが結局何なのかというと、歴史人物がTwitterをやっている、という設定の下で行われるPR活動である。,

 勿論、言ってしまえば日本史上に名前の残っている全員になりきることができる。はじめるための資格は特にない。ただ運営上、その人物に対する見識はある程度なければ続かない。

 続かないという言い方をしたけれど、要するに埋もれてゆくのである。毎年大河ドラマが放送されるたびに、人気のメンバーは変わる。有名な戦国武将や幕末志士はやはりこっちでも大人気だ。最近は中世にスポットライトが当たっているものだから、その時代の人物が着々とタイムラインに進出している。

 そこで生き残るにはある種、創作者に似たアイデンティティを持ち得る必要さえあるのだ。我々も結構大変なのよ。

 

 しかし、大物芸能人や政治家でさえSNS上でトラブルに巻き込まれる時代である。この界隈は特に揉め事が多いな、と感じている。殊に解釈違いや知識の差からくるリプライ合戦が凄まじい。

 僕は平和主義者なので、そういう言い争いには基本的に参戦しない。ああいうのは勝つとか負けるとかではないのだ。それに我々はその人物のファンではあっても、その人物本人ではない。

 よって、数年前徳川慶喜公に「家臣を置いて逃げた卑怯者!」と執拗にリプライを送っていた者がいたけども、見当違いである。我々の活動はどこまでいっても二次創作の枠を出ない。つまるところ同人作家である。同人作家に本編の愚痴を言われても、知らんのである。

 

 特に人気な歴史人物になると、こうした揉め事も多くなる。そうしているうちに、我ら新選組界隈にもその「揉め事」がやってきた。

 例によって数年前のことであるし、別にその人物を晒したいわけでもないので概略だけ述べると、新選組のなりきり垢のほぼ全員にアンチが湧いたのである。

 確か当時はやっていた質問箱だったろうか。

 匿名でそのアカウントに質問を投げかけるサービスを利用され、そこで誹謗中傷が多くやってきた。

 ここで隊士たちそれぞれの反応が、また違っていたのも面白い。

 一切反応せずどっしり構えたK.I、自論を展開するY.K、徹底抗戦のH.T…

 と、面白がっている場合ではない!

 

 なんとそのマメなアンチは、この谷三十郎にも誹謗中傷を投げかけたのである。

 歴史に正解はないから、百人いれば百通りの解釈があるだろう。とすれば、それだけ解釈違い問題が生まれるということである。

 じゃあ聞くが、谷三十郎にそんな解釈持ってるやつ、いるか?

 歴史は常に更新されていき、さらに深堀をはじめればきりがない。浅い知識で歴史を語れば、たちまち有識者たちの餌食である。

 じゃあ聞くが、谷三十郎で知識マウント取りたいやつ、いるか?

 

 そう怯えながら、僕は「質問箱」を開いた。

 そこには短い文章で、だが激烈な批判が書いてあった。

 

 「語尾が変」

 

 至極真っ当なご意見にござる。確かにこんなにござるござる言ってるのは、戦国武将にもおらぬでござる。

 だが前述したように、我々はアイデンティティを持ち得る必要があるのでござる。

 この「ござる」が、僕という谷三十郎が勝ち得た称号なのでござる…。 

みなもと太郎「風雲児たち 外伝」を読んだ。なんと藤堂平助が登場した。

が愛してやまない作家の一人がみなもと太郎先生である。

 学生時代に代表作『風雲児たち』に出会ったときは、こんなに自分が探し求めていた漫画があったものかと感動したものだ。そしてその原点たる『冗談新選組』もしっかり拝読させてもらった。

 近藤土方の多摩時代から、近藤の死までをたった三回で駆け抜け、しかしそこに彼らの栄光と没落がそこにあるのだ。新選組をギャグ漫画として描くというのは、ああいうことなのだ。

 そして氏に傾倒した僕は、彼の著作を徹底的に読み漁った。こうして先日手に入れたのが『風雲児たち外伝16 油小路の決闘』である。「油小路の決闘」というタイトルで思い出すのは、司馬遼太郎新選組血風録』の第一作目。

 『風雲児たち』にも伊東甲子太郎は名前だけ登場する。しかも第一話の冒頭で、幕末に名を馳せた風雲児を羅列する際に「きねたろう」の読みでである。ただし残念なことに、本編に彼が登場する前にみなもと太郎先生がご逝去されたため、ビジュアルはもちろん、氏がどういった甲子太郎を描こうとしていたのかは、全く不明なのだ。

 そんなワケで、描かれなかった伊東甲子太郎がいかにして描かれているのか。

 それを調査するため、我々取材班は頁をめくったのである…。

 

武田観柳斎、登場!?

 まず、近藤勇が「学者が欲しい」といったことを呟くところから始まる。学者嫌いの土方はこれに反対した。だが近藤も最早多摩の百姓ではない。場合によっては幕臣たちと世相を論議する必要性もある。頭の立つ隊士の加入は、新選組の課題であった…。

 とこのように、オーソドックスなまま話が進む。まさにみなもと太郎の歴史物といった風である。「油小路の決闘」の執筆時期は不明だが、このスタンスを見るに「世界名作劇場」を手掛けていた頃なのではないか。

 と、こうして学者の参入を二人が論議していると、走って来る男が一人。

 その男がなんと! メガネをかけて、ぼさぼさ髪を後ろに束ねた新選組隊士ではないか! もうお分かりだろう。新選組隊士でメガネを着用し、そして「学者」の話の直後の登場。これはまさしく、あの男ではないか? あの甲州流軍学者ではないか? あの福田広ではないか!?

「あたしゃね 新選組藤堂平助ですよっ」

 藤堂平助だった。

 メガネの藤堂平助というのは大変珍しい。聞けばこのキャラクターは、氏のアシスタントを模したらしい。思えば武田観柳斎がメガネという一般像すらなかった時代だ。そら出てくるはずがないのである。

 

伊東甲子太郎、特に目新しいトコなし!

 その後登場した伊東甲子太郎だが、困ったことになった。特筆するようなものが特にない、オーソドックスな伊東である。

 ただ露骨な悪役というよりは、狂言回しとして藤堂平助がおり、そこで策謀を巡らせるも上手くいかない伊東甲子太郎といった、ギャグ漫画テイスト(ギャグ漫画だから当然だけど)。

 チキチキマシン猛レースのブラック魔王とケンケンのコンビが近しいものを感じる。

 だがギャグ漫画であるからこそ、氏の描き方はいつも客観的である。伊東と藤堂も完全な善人ではないし、かといって彼らを描く本作でも近藤と土方が冷酷な敵役というものでもない。

 特に油小路で土方が、苦悩の表情で藤堂を斬り、上からの視点で夜の油小路に死体の転がるコマは流石としか言いようがない。漫画表現としての技術が卓越している。伊東たちが脱退した後、細線だけで描かれた大広間。その中央に小さく座る近藤と土方な ど、彼らの寂しさが痛いほど伝わって来るじゃないか。

 かくして、伊東甲子太郎は惨殺され、藤堂平助もそれに続いて死んだ。

 あとがきを読むと、やはり原典は血風録と始末記だったようである。

 

読み終わり! あとがきを読む!

 大筋は語り終えたため、細かい表現などに話を移す。

 みれば油小路へ向かう伊東が「竹生島」を歌ったり、伊東の死体への擬音が「ぺら~」とある。これはそのまま血風録からの引用である。竹生島はともかくとして、伊東(死体)の擬音が「寒さで血が凍り、袴が板のようになり、平べったく見えた」という証言が元だなんて誰が気づくんですか、みなもと先生。

 こうした小ネタを、氏はあとがきで丁寧に「ギャグ註」として紹介してくれている。そこで惨殺シーンはカットした、とギャグ漫画としての信念が語られていた。

 そしてその後で「風雲児たちの方ではどう描こうか」ということが書いてある。

 一体、氏は油小路をどう描こうとしていたのだろうか。

 研究が進み、策士のイメージが払拭されつつある伊東甲子太郎は、また彼と近藤土方の間で悩み続けた藤堂平助は、どう描かれるつもりだったのだろうか。答えは永久に謎のままになってしまった。

 ただ、一つだけ推察の容易いことがある。

 その時は藤堂平助が、チーフアシスタントを模したメガネ隊士ではなかったろうということである。

「ゴールデンカムイ」を読んでいるでござる。土方ファン、必見。

になって「ゴールデンカムイ」を愛読している。

 明治初期の北海道という題材であそこまでわくわくする話を書けるものなのかと感動していた。特に書くまでの調査が実に綿密で、アイヌ民族の風俗や、日露戦争後の軍人たちの生活や実体などなど、その作画も相まって本当にこんな人たちがいたんじゃないかと思えてしまう。

 そして谷三十郎としては、ここに登場する新選組たちを特筆しないわけにはいかない。

 当時隠遁して小樽に住んでいた永倉新八はもちろんの事、なんとあの土方歳三が存命していたという、歴史好きなら胸が高まる展開が待っているのだ!

 これはアツい、本当にアツい。

 例えるなら、エジプトでDIOと戦う承太郎とジョセフの前に、シーザー・ツェペリが再登場して加勢してくれるぐらいアツい。

 そして作者の「新選組観」(新選組に対する認識)が垣間見えるのも面白い。家臣になれと迫る近藤を否定し、脱走した永倉。その永倉に、土方は言うのだ。「誰よりも新選組に拘ったお前」と。

 これほどアツいことがあるだろうか。この時、彼らの脳裏には、浪士組が江戸に帰った日の壬生の町と空が映っていたのではないか。まだ新選組が、幕臣はおろか局長副長という別もなく、ただただ彼らが「同志集団」だったあの日。

 ……とこのように、幕末好きをここまで遠くまで連れて行ってくれる「ゴールデンカムイ」。是非、史実の勉強はちょっとお休みして、読んでみて欲しい。

 新選組をこよなく愛する谷三十郎にとっては、今後の土方歳三に目が離せない。最近読み始めたばかりだが、今、土方は銀行強盗をやって和泉守兼定を奪い返している。

 さて、北海道で大暴れする土方歳三だが、設定上箱館戦争の三十年後が舞台であるため、御年六十五歳である。作中ではカッコいい彼だが、ひょっとすると年相応の悩みを抱えているのかもしれない。

 例えば、歳と寒さのせいで体の節々が痛んでいるとか。

永倉「どこが痛むんです?」

土方「肘、肩……歳ぞ……」

幕末映画鑑賞!「六人の暗殺者」 その②

て、「六人の暗殺者」にもとうとう新選組が登場した。主人公が坂本龍馬暗殺の犯人は新選組だとききつけ、屯所に様子を伺いに行くのだが、そこで驚いた!

 なんと平隊士たちが着ているのが、だんだら羽織ではなく黒の羽織なのである! 今日では新選組が着用していたのはだんだらではなく、黒の上下だったというのは有名な話だが、まさか1955年にそれが再現されているとは!

 と思ったら、近藤勇が普通にだんだらで登場した。あんまし関係なかったようである。近藤勇を演じるのは山形勲。調べてみるとかの黒澤作品「七人の侍」にも出演されていたらしい。本物そっくりの厳めしい顔つき、そして本物そっくりの鋭い眼光! 肖像写真の近藤さんとそっくりである!

 というワケで、この近藤勇に注目しながらこの映画の総評をまとめていくことにしたい。あくまで筆者は「新選組」に寄り添うつもりである。

 なお、古い映画とはいえ筆者はこれをAmazonプライムで視聴したため、もしかするとこれから観るという人があるかもしれない。よってネタバレは極力回避して進めてゆく。

明治維新の描き方

 本作は時代的には龍馬暗殺~明治維新までを描いた作品だから、近藤勇にとってはそのまま栄光~没落が描かれている。そしてそこには、筆者が鑑賞前に想像していた「血風録」「燃えよ剣」以前の、志士たちの敵役としての近藤勇はいないのである。

 というのはつまり、本作が明治維新を全肯定する立場にはないことを意味する。むしろそこには、新政府批判が色濃く表れていた。その根っこにあるのは、権力者VS民衆という構図である。

 主人公が維新後に新聞によって政府批判を行う点や、坂本龍馬を崇敬している点からも、本作が自由民権運動をかなり肯定的に描いてあることは明白といっていい。そしてそれを弾圧する新政府をラジカルな権力者として登場し、謂わば彼らが本作における「敵役」となる。

 さてここで近藤勇に視点を戻す。彼は坂本龍馬大政奉還を幕府への救済措置と断じ、龍馬暗殺への関与を否定する。つまりは「龍馬を憎んでいない」「新政府に倒される」というシチュエーションのみにおいては、自由民権運動に奔走する主人公の視点からはかなり同情的に描かれているのだ。

 

新選組」の胎動

 筆者はこれまで、新選組のイメージを根本から変えたのが「血風録」とばかり思っていたが、どうやら以前から新選組を好意的に描く映画はあったようである。

 というのは、思えばそんなに難しい話ではない。

 例えば織田信長が、マントを翻して葡萄酒を嗜みながら、地球儀を回転させる絵面。どの映画、ドラマ、と言われるとピンとこないけれど、何故だか鮮明に想像できる。これが長年培われてきた「歴史観」といえる。

 そしてもし、そうした映画、ドラマが放映放送された際、必ず「本当の織田信長はこうじゃない!」という意見が飛び交う。史実の織田信長はむしろ保守的で、海外にまで目を向けていなかったというのが現代の史実的解釈だからだ。だが今でも、マントを翻す信長は他方面に現れている。世間一般に「本来の歴史」が浸透するには、途方もない時間がかかるということだ。

 そうした蓄積された土砂のような歴史観が、鉄砲水で急進的に一心されることがある。その鉄砲水とは、テレビドラマである。近年でいえば、間違いなく「麒麟がくる」がその役割を果たした。染谷将太演じる信長は、一度もマントを翻さなかったし、葡萄酒を嗜まなかったし、地球儀も回転させなかった。

 新選組においてその鉄砲水は「血風録」であったという話で、「六人の暗殺者」は新選組が世に花開く前の、胎動期の作品と言えるだろうか。

 

総評は、一周回って・・・

 いろいろ遠回りをしてしまったけど、作品評に戻ろうと思う。

 とはいえこの作品における幕末は、当時として目新しいのかは不明であるが、現代では逆にオーソドックスである。というのも現代は、旧幕府側を同情的に描く作品があまりに多すぎる。無論新政府を肯定的に描いた作品が無いワケではないが、不思議なことに旧幕府側を描いた作品の方が、何故だか出来が良い。

 敗者を描くためには、勝者は「負けて悔いなし」と描かれる。

 勝者を描くためには、敗者は「負けて仕方なし」と描かれる。

 公平性と客観性が重視される歴史界隈においては、前者の方がそれに近くなるのかもしれない。

 そんなワケで、全体的な流れとしては新鮮な感じはしなかった。

 しかし、要所要所の描き方は実に、現代の我々も十分楽しめるボリュームを含んであることはしっかりと書いておく。

 ここにおいてはむしろ、幕末から明治の動乱期で敗れて行った数多の志士たちの哀しさ、虚しさの描き方に着目すべきなのだ。特に中盤は敵役として登場した薩長の志士が、終盤で「狡兎死して走狗煮らる」のたとえをして再登場する名シーンは圧巻で、本作一番の見せ場といって相違無い。

 本作は決して明治維新を「勝者と敗者」という短絡的な捉え方をしていない。

 鳥羽伏見で勝ったものが維新後に没落したり、どの藩にも属さない浪人が歴史を動かす役割を果たしたり、そうした生々しい幕末の魅力が、この作品に溢れている。

 

 最後に、この作品が幕末~明治という時代をどう捉えていたのか、それを象徴する民衆たちの台詞を抜粋させて終わりとしたい。

「御一新(明治維新)ったって、こちとらの暮らしぶりは一行に変らねえ」

「何のことはねえ、徳川様と天子様が入れ替わっただけじゃねえか」

 P.S.

 とはいえ主人公の伊吹武四郎、直情型過ぎて好みは絶対別れると思うのだが……それはまあ、それとして。

幕末映画鑑賞!「六人の暗殺者」 その①

Amazonプライムにある日、一本の映画が視聴可能になっていた。その名も『六人の暗殺者』。

 幕末映画であり、作成されたのは1955年らしかった。新選組を一大ブームたらしめたドラマ作品『新選組血風録』が1965年の作品だから、ブームより前の、まだ新選組のイメージが流布する前の作品である。

 つまり、我々がよく知る新選組像が創られる前の遺物というわけだ。

 今、我々が新選組作品を観るor読むなどして「うーん、お約束だなあ」と思うシーンはいくつもある。

 例えば、池田屋事件で————

 

近藤「総司、そっちは任せたぞ!」

沖田「はい!」

 背中を預け、それぞれ暗闇の中で戦う近藤と沖田。

 沖田は流石に強い。一刀のもとに浪士を斬り伏せる。そしてとどめの一撃! と思ったが、様子がおかしい。倒れ込み、咳こむ沖田。これ幸いと逃げる浪士。

 咳きこんだ沖田の手のひらには、血痕が……

 

 というシーン(うーん、お約束だなあ)

 また例えば、同じ池田屋事件で————

 

 あらかたの浪士を片付けたらしい隊士が一人、肩で息をしながらやってくる。藤堂平助だ。激戦による激戦で余程疲れたらしく、色白の額に汗が照り返している。少し、休憩……頭の鉢がねを外した、その時だった。

 どこかに隠れていた浪士がダダッと飛び出し、一閃!

 藤堂の綺麗な眉間。そこから斜めにザックリと、切傷が!

 

 というシーン(皆さんご一緒に。うーん、お約束だなあ)

 あるあるだよね、あれ、何の話だったっけ。

 そう、つまり! 今回の『六人の暗殺者』は、そうしたおなじみエピソードが一切反映されていない作品なのである。とすれば、逆に新鮮に見れるんじゃないだろうか? またそこから、こうした時代も確かにあったのだと、歴史の流れを感じることができるのではないか?

 というわけで見て行こうと思う。

名作タイトルの法則

 初っ端から仁王像と共に「六人の暗殺者」のタイトルが映し出される。そういえばこのタイトル、思いっきり『七人の侍』のパロディと思われる。こちらは前年に公開されているのだけど、ひょっとしたら当時の群像劇の多くが「〇人の△△」だったんじゃないだろうか。

 最近でこうしたタイトルと言えば、今放送している大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。その監督たる三谷幸喜が、「名作映画は、〇人とつくことが多い。加えてそれが『3の倍数』だと、なおよい」というようなことをどこかで言っていた。

 なんと、名作の基準を満たしているではないか。

 期待が高まるね。

 そういえば三谷で幕末といって忘れちゃいけないのが、これも大河ドラマの『新選組!』。これのOPのラストで、どこかの山門が版画で映し出される。その両脇の仁王像が門の中を睨むと、向こうから新選組の隊士たちが歩いて来る。

 この映画も、どこかの山門の仁王像がタイトルで出てきた。もしや三谷がこの映画を視聴していて「これは良い!」とOPの参考にしたのか、もしくはこれより前から「幕末で新選組を出すと言ったら、仁王像だ!」という認識があったのか……。

 ここまで浪漫を馳せといてなんですが、多分ただの偶然だと思います。

 

鞍馬天狗×6

 冒頭は主人公の侍が、今まさに龍馬暗殺を企む刺客たち(つまり、六人)を京の街で見かけるところから始まるのだけども、思わず笑った。

 なぜって、刺客たちの恰好が全員鞍馬天狗嵐寛寿郎とおんなじなのである。黒着流しに黒覆面。調べて見たらこのイカ覆面、「宗十郎頭巾」というらしいが、それが六人連れ添って京の街を、悪い顔して近江屋へ直行。もっと騒げよ街の皆! 龍馬~~!

 この鞍馬天狗は「六人の暗殺者」のさらに20~30年前の作品。どうやら「鞍馬天狗もの」という一ジャンルを築いたぐらい有名だったみたい。皆さんご存知笑点林家木久扇がたびたびネタにする「木久蔵ラーメン」てのがあるが、そのパッケージイラストも、木久扇師匠が鞍馬天狗のコスプレをしているのだ。

 時代劇における鞍馬天狗は、今でいうライトノベルにおける「なろう系」とか「異世界物」に近しいようだ。

 そして今作冒頭では、鞍馬天狗×6が近江屋めがけて列をなす。こういう名作へのオマージュが、本作には随所にみられる。

 回想シーンの坂本龍馬(故)が、女の子に膝枕してもらいながら「これは命の洗濯だよ」という。この「洗濯」というのもやはり、「日本を今一度、洗濯いたし申し候」という、もはやお決まりの彼の格言のオマージュだろう。

 

「ヒーロー」坂本龍馬と、「その友達」中岡慎太郎

 う~ん、面白い映画である。特に坂本龍馬が良い。

 というのも坂本龍馬は最近、研究されつくした感があると、筆者は常々思っていた。何故なら彼の人物像で目新しいと思う作品はほとんどないからである。天然な龍馬、策士な龍馬、熱血な龍馬、陰険な龍馬、エトセトラエトセトラ……。 

 そこにあって本作は、もう本当に古典のような龍馬像なのである。全然現在の我々が思う「龍馬」じゃない。そもそも役者さんが貫禄たっぷりで、落ち着き払ったダンディな印象。しかも土佐弁ばりばりではなく「まあ、落ち着きなさいよ」といった丁寧な口調。勝海舟より貫禄あるんじゃないか?

 よくビジネス書や安い歴史物で「坂本龍馬は実は恰好悪いところがあってね」という帯の物を見る。そして大抵、寝しょんべんとか、袴の紐べろべろとか、武市の庭で立ちしょんべんとか、もう「それしか無いんか!」というおなじみエピソードが収録されている。

 あれを読んで果たして「え! 龍馬ってそんな人だったの!」と思う人間がいるのかと、本気で筆者は思っていた。今や龍馬にそんな二枚目の「かっこいい」という感想を持つ人は少ないと思うし。

 だが「六人の暗殺者」の龍馬をみて、そしてこの「龍馬」が当たり前だった時代を想うと、もしかするとご老人なんかはびっくりするのかもしれない。でもそれも切ないと思う。昔からの憧れだった龍馬像を、老後にぶち壊されるのはかわいそうだと思う。

 ……何の話だったっけ。

 そうそう、坂本龍馬が古すぎて逆に新鮮。良くも悪くも時代考証がまだ未熟だった時代なのだと思う。それを証拠に中岡慎太郎が「何で倒幕しねえんだよ」と龍馬にくってかかっていた。君たち同志じゃねえのかよ。

 

 さて、長くなったのでいったんここまで。

 ここで気づいた哀しい事実と言えばただ一つ。

 まだ新選組が出て居ないことである。